成長から成熟の社会へ②

「成長」から「成熟」へと社会が変わり、

前置きばかりが長くなり、本質(=問題解決)が遠のいている時代だ。

 

ここから先は、醜いもの、凶悪なもの、不可解なもの、

そういうものたちが、ごろごろ出てくることを、覚悟せねばなるまい。

 

現に俺の本業である精神保健分野でも、

「(退院したら)親を殺してやる!」「秋葉原のような通り魔事件を起こしてやる!」

と叫んでいるような患者ですら、早期退院の波に押され、入院から地域社会へと生活を移行されている。

 

そういった子供を抱える親は、戦々恐々とし

「殺られる前に殺るしかないのか」と、恐ろしいことまで口走っている。

 

これは大げさでも作り話でもなく、俺の見聞きしてきた現実である。

 

そして凶悪な事件が起きると、「昔からこういうことはあった」と解説をする専門家がいるが、

それは、ちょっと違うのではないかと、俺は思う。

 

なんたって今や「成熟」した時代だ。

人々が感じるのは、法律もルールも細かく整備されているはずの、

この時代に、なぜ? ということなのだ。

 

たとえば佐世保の女子高生殺害事件のように、

佐世保では重点的に、「命の教育」が行われていたのに、なぜ?

加害者の親は学歴も肩書きも持つ、“立派”な人物だったのに、なぜ?

加害者は勉強もスポーツもできる、優秀な子だったのに、なぜ?

 

そこに大いなる落差を感じるからこそ、言いようのない恐怖を抱くのではないだろうか。

 

しかし、佐世保の「命の教育」にしても、半ば形骸化していた部分もあると聞く。

教員の中には、子供たちに鶏を飼育させ、いずれそれを食べるような、

リアルな「命の教育」をしよう、と提言したひともいると言うが、

他の教員や保護者の反対にあって、できなかったそうである。

 

もちろん、育てた鶏をしめて食べるような教育をしていたら、

佐世保の事件は起こらなかった! などと短絡的なことを言うつもりはないが、

この一件だけでも、現代において、手触りや肌感覚を学ぶ(学ばせる)ことの難しさが、

現れているのではないだろうか。

 

しかし皮肉なことに、遠くなる一方の本質(=問題解決)にたどり着くためには、

知識だけではとうてい無理で、

忍耐とか執念とか気合いとか、瞬間的な危機管理能力とか、

つまりは人間力=現場力が求められる。

 

結局、現場力のない人間は、本質にはたどり着けないし、

真の問題解決もできないから、いずれ、メシも食えなくなる。

 

この「成熟」した時代に、資格を持っていても食えない奴らが続出しているのは

そういうことなのである。

 

そうやって食えない奴らが何をしだすかと言えば、最後は「犯罪」しかない。

たとえば最近だけでも、

 

借金をした人の過払い金が返還されたにもかかわらず、

弁護士や司法書士が依頼者に渡しておらず、着服が疑われるケースがあるとか……

返還過払い金、弁護士らの着服横行か

 

旅行代金を振り込んだのに、チケットが届かないとか……

旅行会社レックスロードを捜索、無登録営業の疑い 警視庁

 

といった、まさか! と思うような事件が相次いでいる。

 

しかし俺は、まさか! とは思わない。

なぜなら俺は、「現場を知らずに」、資格や肩書きだけを手に入れた人間の傲慢さを、

今まで、嫌というほど見てきたからだ。

 

中には、その思考や手口を、俺に教えてくれた奴もいる。

だからみんなにも教えておく。

 

彼らは、「自分は選ばれた人間だから」と、はっきり口にする。

選ばれた人間だから、金や名誉を手に入れて当然という感覚なのだ。

 

だから現実に食えなくなると、たとえ犯罪めいた行為であっても、平気で行う。

罪を罪とも思わない。

そういう輩が、うようようようよ、はびこっているのである!!

 

俺は改めて言いたい。

資格だの肩書きだの地位だの、もっと言えば見てくれだの、

そんな表面的なものに惑わされず、相手の「人間」そのものを見る目を、

俺たちは持たなければいけない。

 

そのためには、机にかじりついて勉強ばっかりするんではなく、

嫌なことでも面倒なことでも、それがひと様のためになるのなら、果敢に飛び込んでいく。

そういう経験が必要であったりもするのだ!

 

ちなみに、子供時代のそういった経験を、学校教育などに求めても無駄で、

各家庭の教えに委ねられているのが、今の時代であるということも言っておこう。

 

分かったか!!

 

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