人間としての格差

格差社会が叫ばれて久しいが、俺は、経済的な格差だけでなく、

人間としての格差についても、考えている。

 

俺にとっての人間の格差、そのもっとも分かりやすいラインは、

法を犯しながら生きているか、法を遵守して生きているか、それに尽きる。

 

おそらく多くのひとが、

「法を遵守するのは、当たり前のことじゃないか」と思うだろうが、

今は本当に、見た目では分かりにくいところでの犯罪が増えた。

 

たとえば、表向きは普通の会社員の顔をしていながら、

裏で、副業として詐欺行為を行っているような輩の存在は、

あちこちで見聞きする。

 

一方で、暴力団やカルト宗教をはじめとする反社会的集団も、

昔とは違って、今や巧妙に姿かたちを変え、一般社会にもぐりこんでいる。

そして、彼らの甘い話に乗せられて、

大手企業に勤めているような若い人間が、犯罪の片棒を担がされていることもある。

あとになって「知らなかった」「気づかなかった」という言い訳は、通用しない。

 

しかし、いくら見た目が分かりにくくなったとはいえ、

反社会的集団にシンパシーを感じてしまう人間の生き様には、

やはり「法を遵守する」という概念が、抜け落ちているのである。

 

なぜそれが分かるかと言うと、その人間の親に、

「法を遵守する」という概念がないからだ。

 

たとえば、子供の違法行為が発覚したときに「ばれなきゃ大丈夫」と言う。

「金がもらえるならいいじゃないか」と、犯罪を推奨するようなことを言う。

「こうしておけば、世間をだまくらかせるよ」とアドバイスする親さえいる。

そもそも親自身が、法に抵触するような行為を行っている。

 

ゲロゲロの世界である。

 

ノールールの中で育てられた子供に、

「法を遵守する」という概念がもてるはずもない。

一方で、勉強しろいい学校にいけ、ということだけは教育されているから、

ノールールのまま、いい学校に入学し、大企業に就職もしている。

 

そこで本人が何をやりだすかというと、

一般社会と反社会的集団の境目にたち、

自分の都合であっちに行ったり、こっちに行ったりを繰り返すのだ。

 

だからいざ、悪事が露呈したときには、

反社会的な集団からは、「ヘタ打ちやがって」と恨みをかい、生涯追われる羽目になる。

そこから逃げたい、助けてほしいと思っても、

一般社会の人間からしてみれば、ドン引きだし「関わりたくもない」と突き放される。

 

かくして行き場をなくし、身を潜めて生きるしかなくなる。

そうなって初めて、法を犯す人間と遵守する人間の格差に気づいても、遅いのである。