子供の命

大阪で起きた女児虐待死のことがニュースになっている。

 

 

亡くなった女の子は難病を患っており、行政の育児支援も受けていた、

寒空の下、家から閉め出されている姿が、近隣住民に目撃されていた、

などという報道もされている。

 

それでいて、なぜ、こんなことに? という疑問がぬぐえない。

 

ちなみに厚労省の「子ども虐待対応の手引き」(平25.8改正版)には、

子どもへの虐待に対する対応の仕方が、ことこまかに記載されているし、

法整備も、行政の支援体制も整えられていることが分かる。

 

しかし、残念な事件があとをたたないのは、

やるべきことは分かっていても、具体的に現場で対応できる人材が育っていない。

それに尽きるのではないだろうか。

 

子どもを虐待して、小さな命を死に至らしめるような親に対して、どう向き合うか。

ノウハウやマニュアルをいくら持っていても、

現場の人間力がなければ、対応はできないだろう。

 

こういう事件が起きると、行政側は決まり文句のように

「一歩を踏み込むことができなかった」と釈明する。

その言葉こそが、現場での対応能力の不足を、証明していると俺は思う。

 

しかし一方で、子どもの虐待ほど、

介入できるのは行政の専門家たちでしかない。

 

実は俺のところにも、未成年の子どもに関する相談が持ち込まれることがあるが、

できることには限界がある。

相手が成人ならば「そんな親とは縁を切って、家を出ろ!」と言えるが

未成年の子どもにそんなことは言えないし、

いくら生育環境が悪いからと言って、勝手に連れて帰るわけにはいかない。

 

そうなると、俺のような第三者でなおかつ民間の立場の人間にできることは、

情報(事実)を収集してしかるべき行政機関に提供し、

そこが、公的な権限でもって適切な介入をしてくれるのを、見守るしかない。

 

だが、そうやって通告をしても、対応した職員の能力によっては、

「関係各所と連携してやっていますので」

「(関係各所に)任せておけば大丈夫だと思いますよ」などと、

もっともらしい理由を述べられて終わりになる。

 

実際には、ちょっと確認に行っただけ、相手が拒否すれば簡単に手を引く、

といったことが繰り返されている。

 

腹立たしいことこの上ないが、他に方法を持たない俺は、

彼らが適切な対応をとってくれるまで、粘り強く交渉するしかない。

 

相手にとっては、そんな俺の存在は目の上のタンコブであるらしく

俺が出向くたびに、まるでゴキブリでも見たような顔つきになる。

「また押川が来た」「早くこの件から手をひいてくれないかな」……

という心の声が聞こえるようだ。

俺にはその態度こそが、彼らの保身に見えてならない。

 

こういった仕事に、危機管理や危険予測、リスクヘッジがあるのは当然だが、

現状ではそのすべてが、「子ども」ではなく「自分たち」に向いている気がする。

 

今や虐待の通報も増えていて、人員も不足しているというのは分かる。

人口が減りつつある時代に、人員を増やせというのは難しいかもしれない。

しかし、職員一人ひとりの「現場力」を上げていく取り組みは、

国の課題として、絶対不可欠なことではないだろうか。

 

これは、精神保健分野にも当てはまることである。

そういえば、先日のNY訪問で、現地で働く日本人ワーカーに取材をしたのだが、

「日本の教育は、とにかくインターンシップが足りない!」と言っていた。

インターンシップってなんのことですか、と俺が尋ねると、

「現場よ、現場」という答えが返ってきた。

そういうことである。

 

ちなみに「児童虐待防止法第6条」及び「児童福祉法第25条」には、

虐待を知った者は誰でも通告する義務があることも、明記されている。

他者の命に対する意識を高めていくことは、

俺たち一人ひとりにも求められているのだ。

 

子どもを虐待する親が悪いことは、言うまでもないが、

見て見ぬフリをするような人間もまた、エラソーなことは言えまい。