親の死生観

仕事を通じて家族の問題に携わるとき、俺が基準として考えているのは、

どこまでいっても「命」のことである。

これは、今までにも何度も書いてきた。

 

もう一つ気づいたことを言っておくと、

最近の家族、とくに親には、「人間は必ず死ぬ」という概念が、

すっぽり抜け落ちているように思う。

 

とくに60代以降の親世代に、顕著に見られる傾向だ。

もう仕事も引退して、人生の四季でいえば冬に入ったも同然なのに、

まだ現役バリバリの装いで、家族の頂点に君臨している。

昨日のブログに書いたような経済活動も盛んに行い、

子供の生き方に対しても、未だあれこれと口を挟み、思い通りに動かそうとする。

 

これがまともな家族関係にあるならば、

「いつまでもお元気なお父様(お母様)ですね」

と笑って済まされるのかもしれないが、

俺が携わっているのは、子供が重大な問題を抱えている家庭ばかりだ。

 

そういう家族だからこそ、親として最も考えるべきことは、

「自分が死ぬ前に、この問題をどうするか」ということであり、

親が死んでも困らないような体制を、子供たちに残しておくことだ。

 

その体制とはすなわち、その子供(対象者)に対して、

「人間的な」関わりをもってくれるひとをどれだけ作ってあげられるか、

に尽きると、俺は思っている。

 

たまに「金をこれだけ残してやれるんだから、なんとかなるだろう!」

と言う親がいるが、それは間違っている。

もちろん金はあるに越したことはないが、

本人がそれを生涯にわたって適切に遣える可能性は低い。

良からぬ人間に騙され、巻き上げられて終わることだってある。

 

だからこそ「人間的な」「信頼できる」ひとの存在が必要なのだ。

ただし哀しいかな、こればっかりは、親が金をばらまいて得られるものではない。

親として、相手が信頼できる人物かどうかの目利きも必要だし、

なおかつ誠心誠意のこころで向き合って初めて、相手のこころも動く。

結果として、子供の生きる道が開けてくる。

 

俺のところにも、高齢の親からの依頼は増えている。

「自分の目の黒いうちに、何とかしなければ」という覚悟をもってくる親もいれば、

この期に及んで、子供のことより自分たち親の都合を優先する親もいる。

 

俺はそこに、そのひとの死生観があらわれるような気がしている。

年老いて、言葉は悪いが「人生のあと始末」をきちんとしていける人間と、

最期まで自分のことでジタバタしたあげく、大きな問題を残していく人間。

 

今では、後者のタイプの親が圧倒的に増えている。

そして「自分は死なない」とばかりに、永遠にイケイケの生き方を続ける親を見ているからこそ、

命を軽々しく扱うような子供も増えているのではないか。

 

もっと言ってしまえば、家庭の中に代々受けつがれる死生観がないから、

「人を殺してみたかった」などというたわごとを言って、

本当にひと様を殺めてしまうような人間が出てくるのだ!!

 

(参考記事)

命なんだよ

やっぱり!命なんだよ