第三者の介入

「家族の中で起きていることは、なかなか見えない」

長いこと家族の問題に携わってきた俺でさえ、そう思う。

 

何年か前から「毒親」という言葉が流行りだし、

「親」は必ずしも敬い大切にしなければならない存在ではなく、

「家族」という集団も、決して聖域ではないことを

少しはおおっぴらに語れるようになった。

 

それでもなお、家族は、家庭の中で起きていることを、

正直に話したがらない。

 

「家族は、親子は、こうあらねばならない」という、

教科書にでも出てきそうな概念に、縛られているようにも思う。

そして、そういう家庭の子供ほど、

自分の抱える問題を、素直に認めない傾向もある。

 

うちに相談にくる家族でも、子供の問題行動について、

公的機関に相談にいっているのかと尋ねると、

「公にしてしまったら、子供の立場がない」「警察には言えない」

などという答えが返ってくることは、未だに多い。

 

相談はしていても、「電話はしてみたけど…」という程度で、

自ら頼んで、積極的に家庭の中に入ってもらうことには、

とまどいやためらいがあるようだ。

 

とくに子供が未成年のうちは、親(とくに母親)は、

「自分の育て方が悪いのだ」「自分がなんとかしなければ」

と考えて、思いつめてしまっている。

 

親だけが、専門家などのカウンセリングを受け、

問題のある子供への対処の仕方を学んでいる、というケースも多い。

もちろん、親が対処の仕方を学ぶことで、

親子関係が変わっていくことも、あるとは思う。

 

しかしそれは、あくまでも問題の初期段階に有効なのであって、

悪化し、固定化してしまった問題に関しては、

第三者の介入しかないと、俺は思っている。

 

それは親のためでもあるけど、本人のためでもあるのだ。

 

第三者の介入とは、すなわち本人対応であり、

家庭の中に、社会の目を入れることである。

それを避けて通ることは、子供が暴君になることを許すことと同じだ。

 

それに順番からいえば、親のほうが先に亡くなるわけだし、

最近は、父子(母子)家庭の一人っ子、という家族構成も増えていて、

いつ何時、本人が一人ぼっちになってしまうとも限らない。

 

本人の存在や抱えている問題を周りに知ってもらい、

関係を持ってくれるひとを増やしておくこと。

子供のためを思うなら、その行動にこそ汗をかくべきではないだろうか。

 

俺が病識のない方を、まずは医療に、というのもそのためだ。

医療につながることで、適切な治療を受けられることはもちろん、

主治医や病院職員と人間関係ができたり、

退院後、福祉の道につながる可能性もひらける。

(当然のことだが、医療につながっていなければ、

しかるべき福祉サービスも受けられないのである)

 

もちろん、難しい問題だからこそ、第三者は介入に積極的ではないし、

せっかく家に来てもらっても、本人が拒絶することもある。

一筋縄ではいかないことは確かだ。

 

だが、諦めてしまっては、問題はますます密室化し、

外から見えにくくなり、家族も本人も孤立するだけだ。

 

俺は今回、「『子供を殺してください』という親たち」

という題名で本を書いたが、

そんなことを言う親たちを責めたくて、書いたわけではない。

 

「子供を殺したい」「死んでほしい」……と思うほど問題が肥大化する前に、

家族が本質を見極め、適切な第三者の介入を得てほしい。

それが俺の、切なる願いなのである。

そのために必要な家族の心構えなど、ヒントも書いてある。

 

自分たちだけで抱え込み、悩んでいる家族の方には

諦めずに、なんとか頑張ってほしいと思う。

 

俺は俺で、家族が声を挙げたときに、

迅速に動ける公的機関やその仕組みをつくるため、邁進せねばならない。