長い休みで頭も休むか?

世間は正月休みに入ったようだ。

 

ゴルーデンウィーク、盆休み、年末年始…、

これらの長期休みを、俺は上手に楽しむことができない。

 

休みを休みとして受け入れてしまうと、どうにもだらーっとしてしまい、

志も気力も低下を招いてしまうような気がするのだ。

 

だから、周りが長期休みを堪能している時には、

俺はむしろ、これから先のことを一生懸命、考えることにしている。

 

「志をどこに置くか」

「誰の為にやるか、やりたいのか」

ということを徹底的に考え、

「気力を最高潮に上げておく」のである。

 

何かを成し遂げるときに俺が一番大切にしているのは、

「気力を最高潮に上げておく」ことである。

それができなければ、高い志をもつことも、

志を保ち、継続して努力することもできない。

 

そして、「誰の為にやるか、やりたいのか」。

素晴らしいひとの為にやることはもちろんだが、

俺は自分の心で、そのひとを選ぶと決めている。

 

世の中には、表面的には「他人様のため」などと言って、

結局自分のためにやっている偽善者がたくさんいる。

そういう奴に限って、ご立派な学歴や経歴を身に付け、

やさしげな仕草や頭のよさそうな言い回しなど、

こなれた人間のしぐさも板についている。

だがじっくり観察していれば、他人に対するちょっとした言動や振る舞いに、

そのひとの器の限界が見えるはずだ。

俺は、そんな偽善者たちには関心もなければ、関係もない。

 

誰の為にやるのか。

俺の答えは、いい意味でキチガイの人生を歩んでいる奴らのためだ。

そういうひとこそが、ほんもののこころを持っているのだ。

 

しかし最近は「スゲーな」と思わず圧倒されてしまうような、

いい意味でのキチガイに、あまりお目にかかれなくなった。

長期休みがありすぎることも、その要因の一つではないのかと、俺は思っている。

一年の間に三度も、しかも図ったようなタイミングで、

長期休みが入ってくるのだ。

 

北野武の語録に、こんなものがある。

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「どうせ死ぬんだから、せめて生きている間は楽をしよう」という考えは

僕の場合、逆でさ、

「どうせ死ぬとき楽になるんだから、生きている間はとことん辛く生きよう」

というのが、僕の考え…

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世間が長期休みのときには、俺はいつも、この言葉を思い出す。