子供の問題にどう対応するか 小学校version

先日、小学校の先生の研修会に講師として呼んでもらった。このご時世なのでzoomでの参加である。

講演などに呼ばれたときには常に、「もう二度と呼ばれなくていい」という気持ちで話をしている。そのほうが心置きなく「本当のこと」を言えるからだ。現場の最先端を見てきた自分の価値は、そこにしかない。というわけで今回も「明るい話はできませんよ」という前置きのもと、引き受けた。

 

 

講演内容の詳細はここでは書かないが、先生たちにとって、子供の問題が深刻化している以上に、「親」との関係に悩んでいることがヒシヒシと感じられた。

虐待や不適切な養育が行われている(と疑われる)子供がいて、何とかしてあげようと介入したとしても、親に拒否されてしまえば、先に進むことはできない。小学校は六年間で、卒業してしまえば後追いもできない。一生懸命関わってもケアが行き届かなかったとき、子供たちはその後どうなってしまうのか……。それが、先生たちの知りたい「現場の真実」でもあった。

 

俺は話のしょっぱなでこう言った。

 

 

この本質は何かというと、“人助け”の本質の話でもある。

 

人を良くする(人助け)ことは、一瞬で完結するものではない。障害にかかわらず、自助・共助ではどうにもならないレベルの問題を抱える人を「助ける」ということは、その人に多数の人間が関わり、下支えすることで、「主人公にしてあげる」ということなのである。

 

もちろん、危機介入として一時的であっても助けるべき状況はあるし、その後、本人の努力でよい状態を継続できるケースもある。でもそれができるのは、本来備わっている能力が高い人に限られる。本人だけでなく家庭(親や、養育過程)にも問題を抱えてきた人の場合、よい状態を継続するためには、長期にわたる関わりが絶対に必要だ。つまり、サポートする側が、犠牲を払わなければできないことである。だから専門家も「やらない!」と匙を投げる。これが、長年現場を見てきた俺の、率直な実感だ。

 

コロナにより、その傾向はいっそう強まった。対面を制限するのは、「人に関わるな」と言っているに等しい。それでどうやって人助けをするのか。これまでは、精神疾患や障害をもつ人に、積極的かつ深く触れようとすると、「人権侵害」だと言って非難を浴びた。今はそれに「ウイルス」が乗っかってくる。よほど強靭なハートの持ち主でない限り、触れようとは思わないだろう。

 

実際のところ、研修に参加した先生の感想でも、熱心に子供やその家庭と向き合う先生ほど、葛藤を抱えているようだった。子供だけでなく親をサポートする時間も必要になり、仕事がプライベートを侵食している。そのことに悩んでいる先生もいらっしゃった。

 

俺は現実主義者なので、「限界がある」ことを認めて、できる範囲でやれることをやるしかないと考えている。「やらないよりは、やったほうがいい」とも。講演では、そのために押さえるべきポイントを話した。もちろん、先生たちの健康や安全が第一であることは言うまでもない。

 

突き詰めて考えていくと、成人した家族の問題と同様に、幼少期・学童期の子供であっても、「司法レベルになるまで問題が放置される」環境になっていること間違いない。それはつまり、「事件が起きる(起きやすい)」ということでもある。

 

日本の教育現場では、未だ警察介入を渋る感情も強く、先生たちも司法とは縁がなく来ている人が多い。そこをどうクリアしていくか。今回を機に小学生の抱える問題について考え、また、現場の先生の声を聞くことができて、改めて探求したいテーマが見つかった。