俺が唸った! 名言 その1 

「押川君!!刑法を犯すようなことは、

 どんな犠牲を払ってでも止めなければならないんだよ」

          (元医療刑務所所長、精神科医

 

 

これを俺に教えてくれたのは、長年、医療刑務所の所長を努め、

定年後は、民間の精神科病院で診察を行っていた精神科医である。

 

数年前に亡くなってしまったのだが、

ほんものの医師、ほんものの人間と呼ぶにふさわしい、

すばらしい人間力をお持ちの先生だった。

 

医療刑務所での経験を活かし、晩年は薬物依存やアルコール依存、パーソナリティー障害など、

いわゆる対応困難な患者の治療を専門としていた。

このなかには、暴力団関係者の患者や、

ひとも殺しかねない凶暴性をもった患者もいたはずだが、

こういった相手にも本気で対峙し、ときには思いきり叱っていた。

そんなことができる医師は、日本中探しても、滅多にお目にかかれないだろう。

 

俺が、難しいケースの患者について相談にいったときも、

必ず「診てみましょう」と、受け止めてくれた。

そこには、患者や家族を助けたいという徹底した思いだけでなく

より難しい頂にチャレンジする向上心、向学心があったように思う。

 

先生がかつて、知的障害者の支援施設で嘱託医をしていたときに、

精神症状を伴う知的障害者について、こんな話をしている。

 

「私は『できるだけ多くの知識を授けるのではなくて、園生に一人で考えさせ、

その希望や行為を道徳に一致する方向に向けさせる』ことが最も重要だと考えているのであります。

最近、奇妙な殺人や傷害事件、神戸のさかきばら少年や長崎の男児殺人、

あるいは河内長野の親兄弟を殺傷した18歳の大学生などが新聞に載りますが、

これらは善悪の判断をつけねばならない教育が欠けていることを、何よりも物語っていると私は思います」

 

今、読み返してみても、胸に沁み入る言葉である。

これは何も、障害を持つ方だけに向けられたものではない。

人間に関して普遍的な真理をど真ん中でついている。

人間として生きるすべての者に対して、求められることだ。

 

神戸の酒鬼薔薇事件を例に挙げているように、

先生がこの話をしたのは、今から10年以上も前のことだ。

今や犯罪はますます巧妙化し、家庭内殺人やストーカー殺人も増え、

殺人事件が大衆化した感すらある。

 

我々は今こそこの言葉の意味を、

家庭教育、学校教育、会社での教育すべてにわたって、

かみしめなければならないのではないだろうか。