“気”について

俺のところにはときどき、トラブルを抱えた若い人間が来る。

 

知り合うきっかけは、ほとんどが「たまたま」、

行きつけの飲み屋で顔見知りになったとか、

まったく関係のない案件で他人から紹介された、とかである。

 

関わると面倒なこともあるが、勉強になることも多い。

とくに大半が20代なので、その後の変化が、とても分かりやすいのだ。

 

彼らを見ていると、良くなる奴と、再び堕ちていく奴の差は、はっきりしている。

中間とか、ほどほどということがなくて、天と地かっていうくらい、真っ二つに別れる。

 

俺は本業を通じて、見てくれや肩書き、持ち物なんかで人間を判断することが、

いかに下らないことか、身をもって理解してきた。

 

それは若い人間に対しても同じで、そいつが何かの資格をとったとか

どこそこに就職したとか、それらは更生のステップの一つだとは思うけど、

“生き様”には、あまり関係がねーな、と思うようにもなった。

 

何を見るかと言われたら、やはり、その人間がまとっている“気”である。

 

悪いことを断ち切り、真剣に生き直そうと思っている奴からは、

こちらが圧倒されるような、いい“気”が出ている。

 

僭越な言い方ではあるが、「助けて良かったなあ」と俺が思えるのは、そういう相手だ。

 

そうやって“人間的に”良くなる奴と、

再び堕ちていく奴の差は、どこにあるのだろうか?

 

そんなことを先日、つらつらと考えてみたのだが、結局は、

「ひとのために」生きているか、「自分のために」生きているか、

の差ではないだろうか。

 

俺が関わらざるをえなくなる若い奴は、

自覚の有る無しに拘わらず、ほとんどが命の危険にさらされている。

その状態を他人に助けられたときに、その人間が何を考えるか。

 

「死んでいたはずの命なのだから、残りの人生は、

ひと様の役に立つようなことがしたい」と考える奴もいれば

「せっかく助かった命なのだから、残りの人生は、

自分のために生きたい」と考える奴がいる。

 

この差は、大きい。

 

「ひとのために」生きようと覚悟した奴は、

どんな汚れ仕事でも、文句一つ言わずにやる。

ひとが嫌がるような現場の最先端、俺なりに言えば、

泥を食うような、ウンコを掴むようなことも、率先してやる。

 

だから表面だけみたときには、

そんなにイケてる人生には思えないかもしれない。

でも俺は、圧倒される。

こころから、「こいつすげーな、生まれ変わったな」と思う。

 

逆に、「自分のこと」しか考えていない人間ほど、

肩書きとか見てくれを整えることに、一生懸命になるから、

大多数のひとは、そいつらを見て、「立派に更生しましたね」と言う。

 

でも俺は、そうは思わない。

だって、自分のことしか考えていない奴に、

この先、いい出会いやいい運が巡ってくるはずがないのだ。

 

だから年をとるごとに、他人に対して、「あれをしてくれ」「これをしてくれ」

「金をくれ」「助けてくれ」……と、「くれくれ」が当たり前になっていく。

 

そんな生き方をしている人間から放たれる“気”は

どんどんみすぼらしく、みじめになっていく。

 

昔は、結果をみるまでに10年くらいは必要だと思っていたが、

最近、そうでもないことに気づいた。

20代でも、はっきりと今後の明暗が見えてしまうものなのだ。

 

これは、物事の移り変わるスピードが速い、今の時代のせいかもしれないし、

俺も多少は成長して、見極めが出来るようになった、ということかもしれない。

 

いずれにしても、俺が今後も応援しちゃろう、何かあったときには力を貸しちゃろう、

と思うのは、当然ながら前者の若者である。

だから真剣勝負で話もするし、間違っていることに対しては、叱りもする。

 

しかし後者に関しては、もう叱ることもない。

 

なんでかっていうと、「気が合う」と言葉があるが、まさに字のごとく、

俺とは“気”が合わないことが、よく分かってきたからだ。

 

“気”が合わない奴にエネルギーを注入しても、意味がない。

相手にとっても、不快なだけなのだ。

経験としてその事実が分かってきたので、

そういう意味のないことからは、そろそろ引退せねばと思っている。