家庭内の格差

社会参加ができておらず(いわゆるひきこもりの状態で)

親が相談にくる子供によくある特徴として、

「夢を捨てきれない」というものがある。

 

たとえば、「東大を目指す」、「医者や弁護士など、資格取得する」

といったことである。

 

もちろん、本人に志があっての現実的な目標なら良いのだが、

たいていの場合は、何かにつまずいたことをきっかけに、

コンプレックス解消のために、進学や資格取得などに走っている。

 

俺のところに相談にくる子供のケースでは、

このような目標をかかげながら、実際には、

長期にわたるひきこもり生活の果てに、

精神疾患が疑われる症状が出ている例も、少なくない。

 

資格取得や大学受験といった夢を語る前に、

治療などすべきことがあるのだ。

 

最近は、「芸能人(俳優やミュージシャン)になりたい」

「作家、漫画家になりたい」なんていうのも増えた。

 

「そんなの、本人の自由じゃないか」という声もあるだろう。

もちろん、本人が自力で頑張り、

うまくいかないことも含めて現状を受け入れているのならば、

周りがとやかく言うことはない。

 

しかし、俺が介入するケースの場合、「教材を買う」、

「専門学校に通う」などと言って、親に何度も大金を遣わせたり、

うまくいかないと親に当たり散らしたり、家族を巻き込んでいる。

 

これでは、「本人の自由」と看過できない。

 

この背景としては、家系的に、代々医者や弁護士で、

子供がそのプレッシャーにつぶされて失敗し、

ひきこもるようになった、というのが、昔からよくある例だ。

 

ところが最近は、家系や親の影響にかかわらず、

そういう話が聞かれるようになった。

 

俺からすると彼らは、東大に行けるほど勉強はできなくても、

そこそこの大学を出ていたり、高校は真面目に通っていたりする。

俺なんかよりもずっと優秀じゃん! と思う子もたくさんいる。

 

見てくれだって、芸能人になるのは難しいけど、

すっごいブサイクとかブスというわけではない。

 

ようするに、高望みをしなければ、

普通の生活を送れそうな子供たちばかりである。

 

それなのに、ありえないような高望みをして、

やがて心身に支障を来すほど、自分を追い込んでいる。

 

俺が思うに、彼らの年代の子供たちは、

幼少期から、「夢を持て」「努力すれば夢は叶う」

という言葉の洗礼を浴びて育っている。

 

大きな夢を持ち、それを叶え、「何者か」にならなければ!

という、強迫観念を抱いているようにさえ、感じる。

 

そして、彼らの親たちも、それを助長する子育てをしてきた。

 

彼らの親世代は、高度経済成長の波にのり、

真面目に働いていれば、それなりの暮らしを手にできた。

 

その豊かな生活、高度な教育を、我が子にも与え、

「夢を持て」など大層なことを、子供に言えるようになった。

 

意識的か無意識かの差はあれども、

現状をベースにさらに飛躍することを、子供に課している。

 

しかし時代は変わり、この国の経済状況も変わってしまった。

現実には、今の若い世代が真面目に頑張ったところで、

親父やお袋がしてきたような生活を得ることは、難しい。

 

社会的な格差だけでなく、家庭内にも格差があるのだが、

親は、その事実に気づいていない。

あるいは気づいていても、「我が家は、我が子は別」と認めきらない。

 

だから子供も、いつまでも学歴や資格にこだわり、

それが難しいとなると、芸能界や漫画家というような、

一攫千金を狙う、突飛な行動に出る。

 

困り果てた親が、いよいよになってから、

「肉体労働でもなんでもいいから、とにかく自立してほしい」

などと言ったところで、子供が言うことを聞くわけがないのだ。

 

親が手出し、口出ししなくても、子供が普通に中学・高校……と進学し、

やりたいことを見つけていく分には、心配する必要はない。

 

肝心なのは、それにつまずいたときに、親がどう対応するかだ。

 

とくに子供が、人生のつまずきや、コンプレックスの解消のために

壮大な夢を語るようになったときには、注意が必要だ。

 

それを受け入れて子供にチャンスを与えるか否かを考える際に、

真剣に子供の資質、特徴、能力を見極める必要がある。

 

それを伸ばすことで、我が子が本当に社会で生きていけるのか?

もっと言えば、それで金を稼いでメシを食えるようになるのか?

よく考えたうえで、子供と話し合うべきである。

 

「子供の夢だから、親として応援したい」

そう言いたい親の気持ちは分かるが、

子供のやりたいことをやらせることが、

結果として、親への依存を引きおこしてしまったり、

社会と距離をおく入り口になってしまったりすることも、あるのだ。