認められたい願望

「押川さんはいつもポジティブですね」「前向きですね」

と、よく言われる。

 

たしかに俺には、「落ち込む」ということが、ほとんどない。

「あ~」とため息が出るのは、懐がさみしいときくらいである。

それだってこの年になると、なんの根拠もなく

「まあ、なんとかなるだろう!」と思えるものである。

 

どうして落ち込まないのかと考えてみると、

そもそも俺は、他人さまから「認められたい」「褒められたい」

という願望が、ないのである。

 

だから、人から誹謗中傷を受けても平気だし、

仕事上でうまくいかなことがあったり、

たとえば突然、契約を切られるようなことがあっても、

落ち込んだり、思い悩んだりすることが、まったく、ない。

次の瞬間には「じゃあ、どうするか」ってことを考えている。

 

振り返ってみると、俺の育ってきた環境自体が、そうだった。

俺は子供の頃、お袋から褒められた記憶がほとんどないのである。

運動会のかけっこで一等とって自慢したときには、

「オリンピックに出られるくらい速いのか?」と言われて撃沈し、

学校で一番の成績をとっても、「ほう、そうか」で終わり。

誕生日に「おめでとう」と言われたことも、一度もない。

毎年、「また一つ年をとったな」と言われるだけだった。

 

それは、親父代わりだった叔父も同じだった。

あるとき叔父の事務所の掃除を頼まれた俺は、

張り切ってすみずみまで磨き上げた。

掃除が終わって、誇らしげに鼻を高くする俺に叔父が言ったのは

「たけし、天井は磨いたのか?」

 

俺はこのとき、「働く」ということのなんたるかを知ったように思う。

 

こんなことばっかりだったら、かなりひねくれて育ちそうなものだが、

幸い、俺のお袋も叔父も、人間のなんたるか、

仕事のなんたるかという本質のところに関しては、

ときに優しく、ときに厳しく、とにかく徹底的に教えてくれた。

俺は幼いなりに、自分が「子供」ではなく「人間」として尊重されているのを感じたし、

それが俺の自尊感情を育んだのかもしれない。

 

しかしまあ、「褒められる」ということのない家庭環境であった。

だけど、大人になった今だから分かる。

他人さまから100パーセント認められる、褒められる、そのこと自体がありえないんだよな。

たとえばノーベル賞をもらった人が、100パーセント全方位から支持を得ているか?

そんなことはない。

ノーベル賞をもらうくらいの天才だって、やっぱり批判や非難を受けているんである。

 

俺が接してきた、道をふみはずしたり、心を病んでしまったりした人は、

「認められたい」「褒められたい」という思いが、とにかく強かった。

 

その願望は、どこまでいっても現実とかみ合うことはない。

だから彼らは、そのギャップを埋めようとして、罪を犯したり、

「自分はカリスマだ」と妄想を抱いて、心の病気になってしまった。

 

それから女に多いのは、安易に水商売に走って、

男にちやほやされたり、大金を貢がせたりすることで、

自分を納得させているケースだ。

やがてそれでも飽き足りずに、違法薬物に手を出した人を、

俺は本当にたくさん見てきた。

薬物をやれば、ありえないほどの快感や万能感を得られるからだ。

 

男は、水商売というよりは、親や付き合ってる女に泣きを垂れて、

弱さを演出することで金を引き出しているケースが多かったな。

それが通用しなくなると、DVなど暴力を振るうようになって、

あらゆるものを奪い、発散し、満足感を得るようになる。

 

一方で、犯罪を犯したり、心の病気になったりしていなくても、

「予備軍」と思える人は、周囲を見わたすと、けっこういる。

 

仕事の能力的にはもはや頭打ちになっているのに、

自分の足元も見ないで、「会社は分かってくれない」「俺はビッグになりたい」

なんて言っている奴をみると、

そのうち不正でも犯すんじゃないかと、俺は気が気ではないのである。

 

他人さまから「認めてもらう」「褒めてもらう」ことなんて、ない。

その現実をさっさと受け入れたほうが、

ずっと自分らしく、伸び伸び生きていけるんじゃないのか?

 

認めてもらえなくても、褒めてもらえなくても、

自分のやったことが、ちょっとは他人さまの役に立って

相手の明るい笑顔を見ることができれば、それでいいじゃないか。

俺はそう思っているし、

世間の評価なんて考えずに、ただただ自分のやるべきことに邁進している人を見ると、

全力で応援したくなるのである。