「孤独」のもたらす功罪を考える②

「孤独」に忍び寄るのは、「こころの病気」も、またしかりだ。

 

家族に先立たれた、疎遠になった、恋人と別れた……

そういったことをきっかけにしてひきこもるようになり、

やがて精神疾患を発症してしまうことは、決して珍しいケースではない。

 

それに、「孤独」により精神のバランスを崩せば、

誰かに依存しすぎてDVやストーカー行為に発展してしまったり、

あるいは薬物などに依存してしまったり……というような、

不法・違法行為につながってしまうこともある。

 

俺はどちらかと言えば、みんなでワイワイ、というのは好きじゃないし、

「孤独」そのものは、悪いものじゃないと思っている。

 

ふだんバリバリ仕事をしているひとほど、プライベートはこじんまりとしているし、

そんな最低限の人付き合いでも、豊かに暮らしているひともごまんといるだろう。

 

つまりは「孤独」が悪いのではなく、「孤独」を安易に「寂しい」と置きかえる、

そのこころの隙間に、よからぬものが入り込んでくる、ということなのかもしれない。

 

そうは言っても、こころの隙間を埋めることができるのは、

やはり「ひと」なのである。

 

本当は親子間、家族間で、関係を強化することが一番良いのだが、

今の時代、なかなか難しい家族もいるだろう。

 

そうなるとやはり、頼れるのは行政しかないんだな、この国では。

 

とくにお年寄りに対しては、事件や事故が起こってから腰をあげるのではなく、

たとえば「孤独」につけこむ詐欺まがいの商売がはびこりはじめていることなど、

どんどん啓蒙してもらうしかない。

 

そして俺たちが個人、第三者の立場としてできることがあるとすれば、

友人知人、あるいは近隣住民など、身近な血のつながりのない存在に対して、

小さくとも何か異変があったとき、早い段階で気づいてあげられるか。

「おせっかい」と思われようが、「何かあったんじゃない?」と、臆せず声をかけることができるか。

積極的に介入し、そのひとのために動いてあげられるか。

 

これは頭で考えているときはできるような気がしていても、

血のつながらない、家族でもない存在だからこそ、いざとなると躊躇もする。

 

そこを飛び越えて、踏み込むことができるような関係を、日頃から作っておくべきなんだろう。

家族や恋人といった枠組みにとらわれず、身近なひととの間に。

数は少なくてもいいから。