TATEKOMORI, not HIKIKOMORI

 

俺のところにもたらされる家族の相談において、ここ最近、顕著な傾向がある。それは、自宅にひきこもる子供から、親が奴隷のような扱いを受けているケースの増加だ。

 

毎日、本人の指定する物を買い物に行かされ、品名やグラム数を一つ間違えただけでも、激しく罵倒される。台所や風呂など共有スペースの使い方に細かく注文をつけられ、気兼ねして、自由に使うことができない。「○時~○時までは自宅にいるな」と命じられるため、その時間帯は毎日、近隣の施設(スーパーや喫茶店、銭湯など)で時間を潰している。

 

電話一本、外出一つするにも、本人の許可が必要で、帰宅時間も厳格に決められるため、自己裁量で出かけることもできない。友人や親族にも不義理を重ね、付き合いを失ってしまった。親の資産や貯金を、本人の名義になるよう強制的に書き換えさせ、親には自由になる金を、一切、与えない。具合が悪くても、病院にかかる費用さえ、出してもらえない。

 

事例を挙げればキリがないが、こういった話しを、よく耳にするようになった。

 

本人の言動に暴力や暴言が伴い、身の危険を感じて、自宅から逃げ出している親もいる。「本当は、子供も家も捨てて、どこかへ逃げたいが、この先、近隣に迷惑をかけるかもしれないと思うと、それもできない」と、ギリギリの状態で我慢をつづけている親もいる。

 

こういった事例は、おそらく昔からもあったと思うが、ここへきて、急増している感がある。

 

それは、なぜか?

 

背景にあるのは、ひきこもりの長期化と、それに伴う高齢化だが、そこには、ひきこもりの専門家が推奨してきたやり方と、それに漫然と追随して、なんら対策をとってこなかった国の責任も大きい。上述したようなケースの対象者は、多くが現在30~40代である。だいたい、10代~20代の頃に、不登校や就労への失敗、人間関係のつまずきをきっかけに、ひきこもりはじめている。

 

2007~2009年に取り組まれた厚生労働科学研究では、「思春期のひきこもりをもたらす精神科疾患の実態把握と精神医学的治療・援助システムの構築に関する研究」の成果として、「ひきこもりの評価・支援に関するガイドライン」がまとめられた。厚労省を主体としたひきこもり対策がはじまり、ひきこもり地域支援センターの設置や、就労支援など、アウトリーチ事業が提唱されるようになっているが、長期化・高齢化しているケースに対して功を奏するような訪問支援には、至っていない。

 

また、不登校やひきこもりの専門家を名乗る精神科医などは、「本人の意思を尊重して見守る」「本人のことは全て受け入れて許す」という全肯定のやり方を、主に推奨してきた。

 

しかしそれを鵜呑みにして、10年、20年以上もの間、親が子供の意思を尊重して、ご機嫌をとってきた家庭のケースでは、いまや子供は暴君と化し、親と子の力関係も逆転している。親は長年、子供に隷属する生活を強いられており、正常な判断力さえ、失っている。もはや、マインドコントロールされているような状態で、こころだけでなく、身体の調子を崩している親もいる。

 

きょうだいにとっても、本人の暴力や暴言が恐ろしく、親を助けることができない。仮に親を助け出せたとしても、親の資産や自宅を本人が掌握している以上、今後、トラブルが続くことは目に見えている。

 

まさに、ひきこもりではなく自宅籠城、「たてこもり」の生活だ。

 

これらの対象者が抱えているのは、強烈な不安である。自分が年をとるのと同じように、親も老いていく。「親亡き後の人生を、どう生きていくか」それは、自身の生命に直結する不安だ。だから、親の金や家など、資産に執着する。親を力で支配し、自分の持ち物にするだけでなく、親きょうだいには金を遣わせないよう、コントロールをしだす。思い通りにならなければ、親きょうだいを責めたおし、なんとしても、自分の人生の責任を負わせようとする。きっかけ一つで、いつでも事件となりうる状態だ。

 

これが現実であるにも関わらず、家族からの相談を聞いていると、未だに「本人の意思を尊重して見守る」「本人のことは全て受け入れて許す」というやり方を、推奨するひきこもりの専門家もいるという。むしろ、その生活を10年以上も続けてきた家族のほうが、「このやり方では何一つ、変わらない」という事実に気づいている。というよりも、気づかざるをえないほどの、究極の事態に追い込まれている家族が、増えているのだ。

 

「ひきこもりの全員がそうではない」「偏見を増長する」という批判も、当然のことながら、あるだろう。

 

たしかに、ひきこもりに関する行政の支援機関など、第三者の力を借りながら、社会参加をしている方々もいる。しかし日本の現状の仕組みでは、それらの支援機関はあくまでも「本人に参加の意思があるなら、受け入れる」というスタンスだ。そのように、自らの意思で、社会参加できるひとたちを、「ひきこもり」と呼ぶこと自体が、ナンセンスではないか?

 

俺は海外メディアの取材を受けるにあたり、海外における「ひきこもり」関連の情報をチェックした。すると、上述したような自らの意思で社会参加できるひとこそが、「ひきこもり」であると紹介されていて、その先にある「たてこもり」の事例には、一切、触れられない。また、それに伴う家族の苦しみも、取り上げられていない。そもそも日本国内でさえ、取材の難しさもあり、実態が取り上げられることは、ほとんどないのだから、海外に真実が流れないのは当然ともいえる。

 

しかしこのまま、「本人の意思を尊重して見守る」「本人が望むなら、支援を受けさせる」という日本式のやり方が、世界に広まっていくのを、放置しておくわけにはいかない。HIKIKOMORIは、もはやTATEKOMORIであることを俺は、先日のインタビューでも、はっきりと告げた。世界からみれば、HIKIKOMORIの発祥地は日本なのだ。漫画やアニメのような、クールジャパンとはいかない、どちらかというとマイナスの事象ではあるが、それでも、日本で起きている最先端の事象を正確に伝える責任が、我々にはある。

 

まずは、HIKIKOMORIは、TATEKOMORIだという認識。

それを俺は、世界に訴えていこうと思う。

 

TATEKOMORIの部屋①:ゴミ部屋と化した対象者の部屋

case01

 

TATEKOMORIの部屋②-1:自宅の至る所で無造作にタバコを吸うため、常に火災の危険があった

 

TATEKOMORIの部屋②-2:対象者の部屋に投げ出されていた包丁