二人の兄弟

仕事に向き合うとき、「どうやってモチベーションあげるか」ってよく言われるけど、

俺はむしろ、仕事そのものからモチベーションを得ていることが多いな。

 

この間も、俺の心を揺さぶるような仕事の依頼があった。

 

依頼主は母親だったんだけど、事務所での相談の席には、二人の息子も同席した。

二人ともまだ学生で、あどけなさが残る顔をしていた。

 

この母親の夫、つまり兄弟の父親は、数年前から精神を病みはじめて、

繁華街のど真ん中で上半身裸になって叫んだり、

自宅でバッドを振り回したり、するようになってしまった。

 

家族は、何度か父親を精神科病院につなぎ、「統合失調症」と診断もされた。

でも父親には「自分は病気である」という認識がないから、

すぐに退院しては、通院も服薬もやめてしまうということを繰り返していた。

 

俺のところに相談に来た時点で、

父親はあいかわらず家族に暴力をふるっていたし、

飲酒運転(しかも無免許!)の状態で車を乗り回したり、

「今からアイツを殺しに行く!」と言ったまま行方不明になってしまったりと

とにかく手がつけられない状態になっていた。

 

家族は、命の危険を感じた時は110番通報をし、

なんとか再入院できないかと主治医に相談にも行っていた。

同時に、保健所にも何度も足を運んでいた。

 

でも入院が嫌な父親は、警察や医師の前では健常を装う。

こうして、誰も手出しができない、家族にとっては最悪の「グレーゾーン」

(俺はこのような状態を「グレーゾーン」と名づけている)に陥ってしまっていた。

 

そんな厳しい状況の中でも、息子二人はぐれたりもせず、

学校にもきちんと通って、就職も決めたりと、頑張っていた。

「君らは、こんな家庭環境の中で、よく頑張ってるな」

俺がそう言うと、兄が答えた。

「うちは、母親がちゃんとしていましたので、大丈夫です」

たしかに母親は、夫の言動に振り回されながらも、必死で働いて生計を立てていた。

息子たちは、一生懸命働く母親の後ろ姿を見ていたので、

「変なことはできない」という思いが、いつも心の中にあったのだという。

 

父親を除けば、母親と息子の三人で、何の問題もなくやっていける。

最初のうち、俺はそう思っていた。

息子たちは、母親に離婚をすすめていたし、

父親自身も「離婚したい」という意思があると聞いたからだ。

 

だが当の母親は

「病気を治してあげられるのであれば、何とかしたい」

と涙ながらにつぶやいた。そして息子に言った。

「私は離婚したらお父さんとは関係なくなるけど、

あんたたちは血のつながりがあるんだから、一生、関係は切れないんだよ」

 

息子たちは、その発言を聞いて、一瞬、のけぞった。

俺も思わず

「君たちのお母さんは、えぐいことを言うね」

と言ってしまった。

 

母親にしてみれば「だからこそ離婚はできない、母親としての責任もある」

という意味での発言だったのだろうが、

息子たちにとっては、重くて厳しい事実を、ナイフのように刺された気分だったろう。

 

母親は気丈に振る舞っていたが、パニック状態にあることは明らかだった。

家族だけでなく第三者への被害を防ぐためにも、

一刻も早く、父親を医療につなげるしかないと、俺は結論を出した。

 

だけど、民間の医療機関は、なかなか二つ返事で入院を受け入れてくれないのが現状だ。

とくに、このケースのように、入退院を繰り返していたり、

本人が入院を拒んでいる、暴力をふるう、そういう問題行動があると

「今は満床なので」とかなんとか言われて、とにかく受け入れてもらえない。

 

俺は、事務所のスタッフにも連絡を入れて、

受け入れてくれる医療機関を確保するために、動き出した。

 

その間も、母親からは日々、状況を知らせる電話やメールが来ていた。

父親はふらふらとあちこちをさまよっているようで、

どこで何をしているのかも、分からない状態だった。

このままでは病院側がベッドを空けてくれたとしても、

本人に接触することができず、説得もできない。

医療機関というのは、次々に入院依頼が舞い込んでくるから、

一人の患者を待ってくれるようなことはしないのだ。

 

そんな矢先、夜に長男から電話が来た。

「○○を殺してやると言って、車で出かけてしまいました!!

たぶん、アルコールも飲んでいたと思うんですけど……」

 

これは一刻を争う事態になったなと、俺は覚悟を決めた。

こうなるほど、俺のやる気には火がつく。

火がつけば、次から次へと、打つべき方法が頭に浮かんでくる。

 

電話が入ったのが20時過ぎ。

俺は別の案件で動いていたのだが、それをササッとまとめあげ、

22時には、彼らの自宅に到着した。

 

それから、家族を連れて所轄の警察署の生活安全課に行き、

今までの経緯を洗いざらい、話した。

 

無免許や飲酒運転、第三者への殺害予告など、すべてを話したものだから、

母親は初め、俺の言動にとまどっていたようだ。

だけど俺は、こういうときに隠し事をすることほど、危険なことはないと思っている。

 

危機に直面しているにもかかわらず、

自分たちにとって不都合な情報を警察に提供しない家族は多い。

その結果、警察も適切な対応が取れなかったというケースを、俺はたくさん見てきた。

 

状況を正確に把握してもらったおかげで、生活安全課の職員たちは、

具体的な対応策を講じたうえで、家族にアドバイスをしてくれた。

 

そして家族をエレベーターのところまで見送ってくれた際に、

一人の警察官が、二人の兄弟を励ますように、肩を抱き寄せた。

 

警察官の人間味あふれる対応に、俺のやる気はますます上がった。

この家族をなんとか助けてやらなければならない。

そしてそのためには、父親を助けるしかない。

 

翌日の夜中、母親から「夫が帰ってきて寝ているんですけど…」と連絡が来た。

俺は聞いた。「110番通報はしましたか?」

 

前日の警察からのアドバイスで、

「とにかく本人が戻ってきたら110番通報をしてください」

と言われていたのだ。

 

母親は弱々しい声で、答えた。

「長男がまだバイトから帰っていないので…」

 

いざとなって母親は、怖気づいてしまったのだろう。

前日の警察署でも、一人だけ悲壮感漂う雰囲気を醸しだしていたから、

想定内ではあった。

けれども、母親の感傷につきあってこの機会を逃したら、

今後、誰もこの家族に手を差し伸べてくれなくなる。

 

こういう状況になったら、俺にできることは、ただただ行動するだけである。

 

俺はすぐに車を走らせ、彼らの自宅に向かった。

母親にはあえて何も告げず、自宅近くのコンビニで、長男の帰宅を待った。

俺は、長男が帰宅したのを見届け、彼の携帯に直接連絡を入れた。

そして、次男を連れてコンビニに来るように伝えた。

 

彼らはすぐに走ってきた。

俺が自宅近くで待機していたことに、驚いたようだった。

 

俺は二人の目を交互に見ながら、気合いとともに告げた。

「君らには将来がある。君らを救うために俺は今から動く。

君らは俺の指示通りに動いてくれ! いいな!!」

二人とも、俺から目をそらさずに答えた。

「はい!!」

 

彼らにこの心意気があれば、これからも母親も支えられるだろう。

俺のモチベーションはハイオク満タンの状態になった。

今回の俺のモチベーションは、最初から、まだ若いこの二人の兄弟にあったのだ。

 

俺は自宅に向かい、110番通報をした。

瞬く間に、パトカーを何台も連ねて、十数人の警察官がやってきた。

俺は、父親の状態を適切に見極めてもらえるよう、

家族の代わりに警察に事態を説明した。

 

結局、父親は措置入院のかたちで、医療機関につながることができた。

警察官は長い時間をかけて本人を説得してくれたし、

前日の生安への相談も、すべて申し送りが整っていた。

警察の対応はプロフェッショナルそのもので、

俺はただただ頭が下がった。

 

事務所に戻り、明け方近くなって、長男から電話があった。

「押川さん本当にありがとうございました。

助けてくれて本当にありがとうございました!」

 

俺は言った。

「まだ若い君らの将来を守るためだよ。

君らはこれからも、お父さんの病気を背負って生きて行かなければならないのだから、

強くなれよ!」

 

長男は、元気な声で「はい!」と言ってくれた。

彼らが強く生きてくれることを、俺は祈るばかりだ。