子供を殺す親

高齢化した親が、障害者や精神疾患など病気をもつ子供を殺す。

そういった事件がたびたびある。

 

ニュースの際に、加害者の(そして被害者の)自宅が映ることがあるのだが、

立派な一軒家やマンションに住んでいることも少なくない。

そのような自宅の様子をみるたびに、両親はまじめにコツコツ働いてきて、

社会的地位もそれなりにあったんだろうなあ、と想像する。

 

でも、だからこそ、誰にも助けを求められずに

短絡的に「子供を殺す」というやり方で幕を引いてしまうのか……

とも思うのである。

 

家族が、行政機関や医療機関、あるいは俺のような民間企業など、

第三者の協力を得ようと思ったときには、

そこに至るまでの家族の歴史を、話さなければならない。

 

子育て中は、その時々で、親は正しいと思うことを一生懸命やっている。

だけどいざ、経緯を時系列で並べてみると、

「このときに子供がSOSを発していたのに、なぜ向き合わなかったのか」

「なぜここで、子供に対して適切ではない対応をとったのか」

と思うところが、いくつも見つかる。

 

子供と徹底して向き合い、先を見すえた一貫した対応をとるのではなく

その都度、親が「良かれ」と思う対応をとってしまうので、

結果としてみたときに、すべてが場当たり的になっているのだ。

 

今の精神保健の分野では、医療や福祉に継続的につながるためには、

関係各所で同じ説明を繰り返し、頭を下げないといけない。

放置してきた期間が長くなればなるほど、

経緯を語るための時間も、必要になってくる。

 

親はそのたびに、子育ての過ちと向き合わなければならない。

それは、家族の恥部を明るみに出すことでもある。

 

仕事で成功をおさめてきた社会的地位の高い親ほど、

社会における自分と、親としての自分に対する評価の落差に、なかなか向き合えない。

第三者に相談するという行為さえ、苦痛に感じてしまう。

 

それに大変な思いをして医療や福祉につないだところで、

専門家は基本的に、親子関係の改善にまでは手を貸さない。

 

医療や福祉につないでも、親子関係が改善する望みが薄く、

かえって悪くなることさえ、あるかもしれない。

精神科病院への長期入院も難しいため、

長く安心して暮らせる補償はどこにもない。

だったらいっそのこと命を絶とう。殺してしまおう。

 

短絡的にみえる「子供を殺す」の背景には

このような思考回路があるのではないかと俺は思うのだ。

 

俺は以前から口を酸っぱくして「子供の記録を取っておけ」と言っているが、

それは、時系列で事実の記録をしていくことにより、

矛盾や破綻がないか、その都度、振り返ることができるからだ。

 

人間は、突発的におかしくなったりはしない。

誰しも生きてきた時間、流れというものがある。

 

たとえば世の中には、どうしたって不法行為や、

倫理道徳から外れる方向で生きることを好む子供もいる。

 

しかし、悪いなら悪い世界の流儀というものがある。

そこを間違えなければ、たとえ家族が望まない方向にいっても、

たとえば人を殺すというような超最悪の事態は避けられる。

 

その判断が親では難しい、対応がとれないと思うならば、

早いうちに、家庭内に第三者に介入してもらうことだ。

それも初期の段階から、行うことが好ましい。

とくに子供が未成年のうちは、子供を助けるための行政の仕組みもあるし、

専門家や第三者の協力も得やすい。

 

親だって、味方がいると思えるだけで、

心理的負担はまったく異なるだろう。

 

問題を隠すこと、家庭内に閉じ込めることは、

家族の体裁を守ることには、決してつながらないのだ。