分断される家族

この頃、介護や貧困に関する先の見えない話題を目にする機会が増えた。

どの分野も、経済的にも人材的にも数が足りないことは明白で、

国の政策はつまるところ、「家族のことは、家族で責任を負う」

という方向に進んでいる。

 

ならば我が国がこれまで、「家族」を大事にしてきたかというと、

むしろ「個」の尊重こそを、あおってきた。

 

その証拠に、我々は一人ひとりが、

親としての自分、夫(妻)としての自分、

男性(女性)としての自分、子供としての自分……

と、さまざまな役割をこなすことを求められている。

 

経済を活性化するためには、各人に多様な役割を与え、

それぞれにおける消費を促すしかないからだ。

 

表面的には、家族の絆や助け合いなどという言葉が多用されても、

本質のところでは、家族が分断される流れになっているのである。

 

ところが、その本質に気づかない家族は、未だ親が子を抱えこみ、

子は親にしがみつく、という生活を送っている。

 

以前、アメリカから取材に着たプロデューサーは、

俺の携わる家族の問題……「ひきこもり」ならぬ「たてこもり」の事例や、

親をパシリとしてこき使う子供の事例を聞くたびに、

「Unbelievable!!」を連発していた。

 

成人したら家を出て自立することが当たり前のアメリカでは、

日本の成人した子供たちが、親に不平不満を言いながら、

(あるいは殺意さえ抱きながら)家にひきこもる姿が、

「なぜ、家を出ないのだ?」と、とても不思議に映るらしい。

 

アメリカ暮らしが長い俺の知人も、同じことを言っていた。

アメリカにも、デタラメな親はいるし、関係の悪い家族もある。

そういう家庭では、子供がさっさと親を捨てる。

そうしなければ、自分の人生に成功はないと、分かっているからだ。

 

よく言われることだが、欧米における「自立」と、

日本における「自立」の違いは大きい。

 

たしかに、日本の首都圏は物価も高く、おまけに不況とくれば、

「親元を離れて一人暮らしをしたくても、できない」

という環境要因もあるだろう。

 

しかしそれ以上に、親と子の、精神的な依存の度合いが高いように思う。

 

これは、日本に限らずアジア圏の特徴だと思うが、

親元を離れ、大きく羽ばたくことが「自立」ではなく、

家族の一員として、子供の役目(たとえば親孝行をする、

親の生活や老後の面倒をみる、という役目)を立派に果たすことこそが、

「自立」と見なされる風潮が、未だに根強く残っている。

 

だが、個々の役割が多様化した結果、現代では

父性の力強さも母性の包容力も、さほど望むことはできない。

自立のゴールを「家族」に定めることに、

危険がつきまとうことは、明白である。

 

こうして、助け合いや譲り合いできなくなった家族は、

ただでさえ目減りしつつある家族のパイ(たとえば土地家屋、金銭などの資産)を、

家族同士で奪い合う結果となっている。

その最悪の結末が、命の奪い合いである。

 

もういい加減、この事実を認めて、

「家族」というものへの捉え方を、

改めていかなければならない。

 

真の意味で、家族が尊重しあい、助け合って生きるためには、

家族をゴールとして、互いに寄りかかるのではなく、

個々の「自立」こそが、もっとも重要なのだ。

 

少なくとも、これから未来を生きる若いひとたちには

「家族の絆」などという夢物語を語るのではなく、

家族よりも社会に所属していくことの重要さ、厳しさを

語っていくべきではないかと、俺は思うのだ。